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その通り。
アニメ最終回によって、KMBのアニメは原作と別の作品になったと言っていい。
それはつまり「殺人というものに対する捉え方(ないし扱い)」が全く異なる世界であることが明示されたということ。

仕事を行おうとするソーニャをやすなが阻止しようとするエピソード、
アニメではソーニャはやすなの必死の訴えによって、足を止め、仕事(殺し)を行わない。

しかし、原作ではやすなが必死に引き止めるシーンはなく、ソーニャはそのまま仕事に向かう。
そして、翌日の学校で、やすなが「昨日は組織の人たちと会って食事しただけ」と述べるソーニャの
服に赤いシミを見つけて、「それは・・・食事の時についたケチャップとかのシミだよね・・・!?」と言って話がオチる。

ここで重要なのは、原作では「昨日殺人を行ったことを示唆する事実」すらギャグにしてしまっているということ。
言うなれば、原作は「ソーニャの仕事(殺人)」を些細な出来事として取り扱っている。


そしてこれは何を意味するか?
それは、「俺はキルミーを名作だと思ってるけど」にあるような「悲劇的な結末」が原作では起こりえない、ということだ。
なぜなら、「殺人」がギャグになるような些細なものならば、
「殺し屋なんてやって」いたとしても、「いつか酷い目にあっちゃう」ことはないからだ。
故に、原作における「やすなとソーニャの日常」は「いつ終わりが来るかわからない儚いもの」ではない。
それは、貴さこそないものの、いつまでもいつまでもぬるく続くものである。

一方において、アニメでは・・・
これに関しては俺がここで長文で語る必要はないだろう。既に「俺はキルミーを名作だと思ってるけど」のレス投下者によって詳細に語られている。
「やすなとソーニャのじゃれあい」は「何の前触れなくあっさりと終わってしまうような限られた、儚いもの」なのだ。

以上のように、最終回のエピソードによって、
原作KMBとアニメKMBでは、「何気ない日常エピソード」の持つ意味合いが全く異なるものとなったと言っていいと思われる。