彼の一瞬の決意


 彼はペンを回さなかった。
 それは授業中の、板書を写そうとペンを手に取った一瞬であった。彼の中指は痙攣のような動きを見せたあと、すぐに止まった。教室の誰の目にも留まらなかったであろうその微細な動きを、彼だけは見逃さなかった。それは確かに、ペンを弾こうとした動きだったのだ。わかった上で彼は、わざわざペンを回さなかった。もちろん、授業中にペンを回すのはあまり勧められた行為ではない。しかし、彼が回さないということに労力をかけた理由は、それが原因でないらしい。

 その昔、彼が今の学校に入る前の話だ。ある休み時間に、彼は練習を始めた。それは単に、必要であったからそうしたまでの話で、他意はなかった。差し迫った動画の提出期限に焦り、時間を惜しんでいただけのことだったと、彼は考えていた。だが、人目に付くその場所で練習を始めるのはひどく目立つことだろうということも、彼は薄々気付いていた。だから、彼が緊張していたのも無理のないことだろうと、言っても良いだろう。悪い言い方をすれば、彼はそのお披露目とも言える行為に緊張していたのだった。

 当然、その目立った行為を見つけたクラスメイトは、その凄さに関心し、話題にした。周囲に人だかりができて、彼の技は待ち望まれた。慣れない感覚だった。胸の奥が収縮するような、そんな感覚だった。彼は満を持してペンを回し始めた。

 彼の望んだ通り、周囲のクラスメイトたちはその曲芸的な物珍しい動きに感動し、賞賛したのだった。
 しかしそれはすぐに終わってしまった。彼は技の途中で失敗し、ペンを落とした。ペンは手の甲を滑り、床で跳ねて周囲にいた人々の足元へ転がっていった。もちろんそれで彼の技の凄さが変わるわけではなかった。だが、彼がその転がっていったペンを(誰かが手を差し伸べる間も与えず)拾わんとして屈んだその時の姿を、しっかり見てほしい。彼の浮かべた笑いには、曲芸の失敗した恥ずかしさだけがあるのではなかった。

 彼は考えた。別に特別な失敗をしたわけじゃない。こんなことは、この遊びの特性上珍しくも何ともない。手先の細かい動きが少し狂っただけでペンが落ちてしまう、そんな繊細な競技なのだ。それは確かに事実であるものの、ここでそんなことを言うわけにはいかない。誰もそんな事実にまで関心を示したりしない。誰もが、浅い興味で終わることを望んでいる。その理由まではわからなかったが、彼はそう確信したのだった。何かが違う、自分と彼らはどこかで食い違っている、と彼は感じた。

 それでは、彼は何を勘違いしていたのだろうか。漠然と彼が欲していた賞賛は、こんなものではなかった。インターネット上では、彼の振る舞いや立ち位置から評価が下ることはなかった。彼のペン回しが彼の評価の一部を占め、全体に組み込まれていたのだった。しかしどうだろうか、この場では確かに評価はあったが、それが彼の評価に組み込まれることはなく、添えられただけであった。つまり、全体として何ら変わることはなかった。クラスメイトたちは、彼に添えられたものに自分たちの世界から出ることなく接触し、関心を寄せただけで、彼の世界には誰も歩み寄って来なかった。

 はっきりと思っていたわけではないが、彼はぼんやりと何かが変わると思っていたようだ。何も突然物語の主人公のようになると、お伽のように思っていたわけではない。全てが上手くいくと、夢のように思っていたわけではない。しかし、はっきり考えなかったということは、上手くいくはずがないとはっきり意識の上で思わなかったということは、暗にそう考えたようなものだと、ほのかな罪の意識を感じさせられたのだった。その恥ずかしさが、あの笑いにはあったということだった。

 彼はそれから、ペン回しを恥ずかしく思うようになった。その恥を真に理解するのは、恐らくまだ先のことだろう。しかし、恥は彼の心に強く刻み込まれ、今まで消えることはなかった。あの当時のクラスメイトたちと別れ、新しい環境で過ごすことになった時、彼はどんなに喜んだことだろう。彼らの無邪気に曲芸を見るため近付いてくるのを、この上なく鬱陶しいと思い続けた苦労を思ってみてほしい。彼はその度に、何やらわからない自業自得を意識させられたのだ。

 彼は新しい環境で、その全てをやり直そうと思った。そんな矢先に、うずうずとした指先を不愉快に思った。鼻先で小さく笑って、そしてため息を吐いた。馬鹿のように小さいことで悩んでいる、たかが指先一つの動いただけで。そう思って気の抜けたところで、指が動き出した。

 親指の上をくるりと、ペンが回った(その時、通常より半回転多く回ったのを見逃さないでほしい)。しまった、と思った時にはもう遅く、回転は止められない。余計なことを思ったおかげか、ペンはあらぬ方向へ飛んで行き、床を跳ねた。彼は意識上、ペンを回さなかった。しかし、手そのものにドクダミの如く根付いたペン回しは、彼の意識など知るはずもなかった。惨めに、薄く笑いを浮かべながら、諦めたような気持ちでペンを拾いに行った。この切っても切れない腫瘍のような罰に対する、何かしらの罪を後悔しながら……
最終更新:2013年11月19日 01:41